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特別展「Sumitada~戦国・南蛮・キリシタン~」の見どころ③
今回は佐賀の戦国大名・</span>龍造寺隆信(1529~84)について御紹介しましょう。
展示では、佐賀県立博物館から隆信ゆかりの資料を、3点お借りすることができました。

龍造寺氏は鎌倉時代から続く佐賀の領主で、肥前国の守護であった少弐
(しょうに)氏の配下として活動し、室町時代には村中、水ヶ江(みずがえ)の2系統に分かれていました。
隆信はこのうちの水ヶ江龍造寺家の出身で、同家は戦国時代初期に家兼(隆信の曽祖父)が大内氏との戦いで活躍したことで、少弐氏家臣団の有力な領主に成長していました。

 
これは龍造寺隆信の肖像画ですが、無精ひげと眉間に皺を寄せた鋭い目つきが印象的です。
後に、キリスト教の宣教師の記録で
「暴虐」「カエサルのような人物」と評された人となりがうかがえます(ただし、宣教師の人物評は、キリスト教に敵対した人物をかなり厳しく書くのでご注意を)。
『九州治乱記』など軍記物では、隆信は、龍造寺氏の勢力を拡大していく中で、暗殺や謀略を用いたとされています。
この肖像画には、そのような隆信の性格の一端を表現しているようです。


隆信は、主家の少弐氏を完全に滅ぼし、さらには少弐氏に替わって肥前守護となった大友氏と対立と和睦を繰り返しながら、肥前の領主たちを従えていきます。
そして天正6年(1578)、耳川の戦いで大友氏が島津氏に大敗したのをきっかけに、隆信は筑後など周辺諸国へと攻め込み、ついに島津氏や大友氏と並ぶ大名となりました。

しかし、天正12年(1584)、島津氏と手を結んだ有馬氏との沖田畷の戦いで、隆信は島津氏の武将・川上忠堅によって打ち取られ、戦死しました。



これは、隆信が使用したとされる刀で、長崎県ではおそらく初公開になります。
最近、佐賀県立博物館に寄贈されたもので、沖田畷の戦いで隆信を打ち取った、川上忠堅の子孫の方の家に伝わったものだそうです。
以前にご紹介した「雷切丸」と比べ、太くがっしりしたつくりになっています。

そして、隆信が着用していたとされる兜もお借りしました。


鉄錆地紺糸威桶側二枚胴具足(てつさびじこんいとおどしおけがわにまいどうぐそく)と呼ばれるもので、佐賀県指定重要文化財になっています。
兜の正面に注目。何やら丸い凹みがありますね。


これは鉄砲の玉が当たった痕です。おそらく兜の強度を試しためのものと思いますが、もしかしたら戦場で当たったものかも…。

龍造寺氏を相続後、九州を三分するまでに成長させた隆信。
戦場に散ったその生涯を、これらの展示資料から知っていただけたらと思います。



| 投稿者 : 山下 和秀 | 08:53 AM | 学芸員のひとりごと |
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