学芸員ブログ

地味だけど天下人の手紙ですよ。

2020年7月3日

 

 

キラキラの屏風や、南蛮人などをデザインした品々に比べ、古文書はモノトーンで、平面的、どうしても地味になります。

ですが!!
この古文書は、あの徳川家康の手紙、しかも本物なんです。
戦国の三英傑の一人、家康の手紙が大村に残されていたんですね。
しかも花押つき!
磯〇先生が御覧になったら大喜びです。たぶん。

内容は、家康が、初代大村藩主の大村喜前から「呂宋酒壺」と「漬物壺」を贈ってもらったお礼を伝えたものです。
「呂宋」とはフィリピンのルソンのこと。
このルソンから輸入された、「耳」が付いた壺を「ルソン(呂宋)壺」と言います。
この壺が、当時日本で人気だったことは展示解説にありますので、ぜひ展示を見てください。

ところでこの手紙、内容は「贈り物ありがとう」というシンプルなものです。
何とも素っ気ない…。
「せっかく外国のモノを贈ったのに、それだけですか?」と、思わず喜前も愚痴りそうです。
確かに手紙のメインはシンプルですが、ちょっと手紙の後半部分にも注目してみましょう。
「委細山岡道阿弥可申候条、不能具候、」と書いてあります。
これは、「詳しくは山岡道阿弥が話すであろうから、(手紙には)詳しくは書きません。」という意味です。
つまり家康は、手紙にはお礼だけを記し、その他のことは山岡道阿弥という人に直接言葉で伝えさせることにしていたのです。
この手紙と「使者の伝言」のセットは、当時の手紙にはよく見られるパターンです。

そうなると、この「言葉」を伝える人、使者は大事な役目だったことがわかります。
せっかく手紙でいいこと書いても、使者が相手を怒らせてしまったら意味ないですよね。

この時の使者の山岡道阿弥(1540~1604)は、諱を景友とも言い、今の滋賀県の出身です。
若い時に室町幕府最後の将軍、足利義昭に抜擢されて幕臣となり、その後、織田信長、豊臣秀吉と仕え、最後は家康に仕えました。
3人の天下人のもとを渡り歩き、しかも2人の将軍に仕えるという経歴の持ち主です。

この時、山岡道阿弥は喜前にどんな話を伝えたのでしょうか。
もしかしたら、貿易やキリシタンに関する命令を密かに伝えたのかも…?
こんな想像をするだけでも、地味な古文書が少しは楽しく見えてきます。